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東京地方裁判所 平成3年(刑わ)806号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一  公訴事実

本件公訴事実(平成五年七月二八日付け訴因の変更請求書による変更後の訴因)は

「被告人は、平成二年五月二七日午後九時二分ころ、業務として普通乗用自動車を運転し、東京都豊島区東池袋五丁目七番六号付近の道路を護国寺方面から池袋駅方面に向かつて進行し、同所の道路左端付近で一時停止後、護国寺方面に戻るために右に転回するに当たり、同道路は、片側の幅員が約七メートルと広く、かつ、道路中央には、高さ約五センチメートル、幅約五五センチメートルの土台部分があり、その上に継続的に高さ約五センチメートルの金属性の部分のあるいわゆるチャッターバーが設けられていたのであるから、転回を開始する際及び対向車線に進出する直前には、対向車の有無及びその動静を十分注視し、その安全を確認すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、進行方向に気を取られ、転回を開始する際には、池袋駅方面からの対向車の有無及びその動静を十分に確認しないまま発進し、対向車線に進出する直前には、池袋駅方面を全く見ないまま漫然時速約一〇キロメートルないし一五キロメートルで右に転回した過失により、折から対向して進行してきたA運転の普通乗用自動車に気付かず自車左側部を右A車両に衝突させて自車を横転させ、よつて、同日午後一〇時四二分ころ、同都文京区千駄木一丁目一番五号日本医科大学附属病院において、自車に同乗していたB子(当時二五歳)を頚髄損傷により死亡するに至らせたものである。」

というのである。

第二  事故状況に関する事実認定

右公訴事実のうち、被告人の「対向車の有無及びその動静を十分注視し、その安全を確認すべき業務上の注意義務」違反の点を除き、公訴事実記載の日時・場所において被告人運転車両(以下、「被告人車」という。)とA運転車両(以下、「A車」という。)とが、添付図面1記載の〈×〉の地点(以下、「衝突地点」という。)において、推定衝突位置の状態で衝突し(以下、「本件事故」という。)、A車は添付図面1記載の「A車」の位置に停止し、被告人車は添付図面1記載の「被告人車の推定転倒位置」に左側を下にして転倒し、その結果、被告人車の助手席に同乗していたB子が頚髄損傷により死亡したことは、関係各証拠により明らかである。

そして、関係各証拠によれば、〈1〉本件事故現場付近の道路状況、〈2〉被告人車の転回状況、〈3〉A車の走行状況について、以下のとおり認定することができる。

一  本件事故現場付近の道路状況

1  道路状況

本件事故現場付近の道路(以下、「本件道路」という。)は、池袋駅方面から護国寺方面に至る歩車道の区別のある通称音羽通りと呼ばれる幹線道路であり、その中央がチャッターバーで区分されている片側二車線の道路である。

音羽通りは、池袋駅前から本件事故現場までほぼ直線であり、本件事故現場から約一〇〇メートル池袋駅寄り付近には都電荒川線が道路を斜めに横断しており、信号機が設置されている。他方、本件事故現場から約一〇〇メートル護国寺寄り付近から右にカーブし、その先ですぐにまた左にカーブしている。

そして、本件事故現場付近の車道部分の幅員は、約一六・〇五メートルで、護国寺方面から池袋駅方面に向かう車線の車道幅員は約七メートル、その対向車線の車道幅員は約八・五〇メートルである。

また、本件道路の道路両側には、吉野家、双葉寿司、やぶ〈漢字略〉、金誠堂、ニコマートなどの飲食店その他の店舗のほか、マンションなどが連なつている(以上、道路状況は添付図面2記載のとおり)。

2  法律上の規制

本件道路は、道路標識により最高速度が時速五〇キロメートルに制限されており、本件事故現場付近は、両車線とも終日駐車禁止の規制が行われているが、付近にはいわゆるパーキングゾーンが設けられ、路肩部分には歩道境界線から横約二・〇メートル、縦約四・六メートルのパーキングゾーンを示す白線が順次路上に標示されている。

なお、本件事故現場付近は、転回禁止場所に指定されていない。

二  被告人車の転回状況

1  関係各証拠によれば、被告人車は、護国寺方面から池袋駅方面に向けて音羽通りを進行し、B子を自宅に送り届けるため、対向車線側にあるB子の居住するマンション(一階部分はニコマート)前に停止するために、本件事故現場付近で右に転回しようとして、添付図面1記載の「停止位置」付近に停止し、後続車を二、三台通過させた後、池袋駅方面から対向進行してくる車両の有無を確認した上で転回合図をして、転回行為に入つたことが認められる。

2  そして、被告人車の転回行為による回転弧の軌跡は、以下のとおり認定することができる。すなわち、先に認定したとおり、本件事故現場の車道幅員は、約一六・〇五メートル(護国寺方面行き車線の車道幅員は約八・五〇メートル)であり、さらに関係各証拠によれば、添付図面1記載のとおり転回先の対向車線上には鴻巣利明運転のタクシーが路肩寄りに停止していたほか、その前後にも数台の車両(ただし、その車両の種類、台数等は詳らかではない。)が駐車していたことが認められるから、被告人車が転回に利用しうる車道幅員は相当に狭かつたものと認められるところ、右のような転回時の道路状況に加えて、被告人車の最小回転半径が五・二メートルであることを考慮すると、被告人車が本件事故現場で右の駐停車車両と接触ないし衝突せずに安全に転回するためには、転回開始の当初から、ハンドルをほぼ右一杯に転把しなければならず、(右は、被告人の当公判廷における供述とも符合する。)、そうすると、実際の車両の転回中の動きは最小回転半径よりも大きな回転弧を描くことを考慮したとしても、被告人車は添付図面1記載の「停止位置」から発進して、ほぼその最小回転半径である五・二メートルの回転弧(添付図面1記載の破線部分)を描いて転回したものと推定することができる。

そうすると、被告人車の転回開始地点から衝突地点までの移動距離は、転回開始地点を基点として約一七〇度の移動分(添付図面1参照)、すなわち、次のとおり、約一五・四二メートルとなる(小数点第三位以下切り捨て。以下、同様。)。

2πr×170/360=2×3・14×5・2×170/360=15・42(メートル)

3  次に、被告人車の転回中の走行速度については、次のとおり考えることができる。

鑑定人江守一郎作成の鑑定書(以下、「江守鑑定」という。)の中には、対向車線の中央寄り車線に印象された円弧状のタイヤ痕(添付図面1記載の波線部分)は、被告人車の左前輪が横滑りを起こして印象したものであつて、このように衝突前に被告人車の左前輪が横滑りを起こしていたことを考慮すると、被告人車両の衝突時の速度は、時速約一〇キロメートルないし約一五キロメートルと推定される、との記載があるが、江守鑑定及び証人江守一郎の当公判廷における供述(以下、「江守証言」という。)を総合すれば、右の推論過程は極めて合理的で十分首肯するに足りるものであるから、衝突時における被告人車の速度は、時速約一〇キロメートル(秒速約二・七七メートル)ないし約一五キロメートル(秒速四・一六メートル)と認定することができる。

そして、関係各証拠によれば、被告人車の左前輪は、ちようど道路中央のチャッターバーを越えた先辺りから道路面に横滑り痕を印象し始めていることが認められるから、衝突時以前の被告人車の速度についても、被告人車の左前輪がチャッターバーを越え、遅くとも横滑り痕を印象し始めた地点付近(転回開始地点を基点として約一四〇度移動した地点、添付図面1参照)では既に時速約一〇キロメートルないし約一五キロメートルの速度に達しており、それから先もほぼ右速度で進行したものと考えられる。

他方、右横滑り痕を印象し始めた地点より手前については、停止状態から序々に加速して時速約一〇キロメートルないし約一五キロメートルの速度に至るわけであるが、被告人車が急発進、あるいは急加速したなど特段の事情が認められない本件においては、その平均速度である時速約五キロメートル(秒速約一・三八メートル)ないし約七・五キロメートル(秒速約二・〇八メートル)の速度で進行したものと考えることができる。

そうすると、被告人車の転回開始からA車との衝突までの所要時間は、先に認定した被告人車の転回開始地点から衝突地点までの移動距離を基に計算すると、次のとおり、約六・七五秒ないし約一〇・一八秒となる。

(時速約10キロメートルの場合)

(15・42×140/170÷1・38)+(15・42×30/170÷2・77)=10・18(秒)

(時速約15キロメートルの場合)

(15・42×140/170÷2・08)+(15・42×30/170÷4・16)=6・75(秒)

三  A車の走行状況

関係各証拠、とりわけ、第一六回公判調書中の証人Dの供述部分(以下、「D証言」という。)並びに前記江守鑑定及び江守証言によれば、A車の走行状況は、次のとおりであつたと認められる。すなわち、A車は、本件道路の中央寄り車線を池袋駅方面から護国寺方面に向かつて進行し、衝突地点の手前約一八〇メートルの地点付近(ひまわり亭付近、添付図面2参照)を時速約一二〇キロメートルの速度で通過し、衝突地点の手前約九〇メートルの地点付近(吉野家付近、同図面参照)で制動をかけ、衝突地点の手前約四〇メートルの地点付近に至つて時速八〇キロメートルに速度が下がつたが、止まりきれないと判断してブレーキペダルから足を離して左に転把し、そのまま本件道路と約一一度左斜めに走行して車線変更をしようとしながら、衝突地点で被告人車と衝突した(A車の衝突時の速度は、時速約七五キロメートルないし約八〇キロメートルであつた。)と認定することができる。

D証言は、音羽通りの南側にある自宅からA車と同型のスープラを運転して出発し、音羽通りに通ずる路地を都電荒川線手前付近から音羽通りに入り、A車に追従して走行した当時の状況を逐一具体的に供述しているもので、その内容に格別不合理な点は認められない上、同証人の運転歴、自動車についての知識や関心の強さ、証言に至る経緯等に照らしてみると、十分にその信用性を肯定することができる。そして、江守鑑定は、物理的にA車の衝突時の速度を求めた上、D証言に依拠してA車の走行状況を導いているのであるが、右鑑定は、記録に現れている事故状況や車両の破損状況をもとに物理学的考察を加えてなされたもので、鑑定の資料、方法及び推論過程に疑問をはさむ余地はなく十分に信頼できるものと考えられるから、D証言、江守鑑定及び江守証言に基づき、A車の走行状況を右のとおり認定することに何ら問題はないというべきである。

これに対して、第三回公判調書中のAの供述部分(以下、「A証言」という。)には、「池袋駅から自車の前に車はなく、赤信号には一度もかからず時速五、六〇キロメートルで走行していたが、都電荒川線の交差点のところで若干スピードを緩めて、時速五〇キロメートルくらいで走行した。出発直後から後続の車があつたが一度もスピードを上げたことはなく、上げようと思つたこともない」旨の供述記載がある。

しかしながら、前示のとおり、A車の衝突時の速度が時速約七五キロメートルないし約八〇キロメートルであつたと認められるのであるから、それ以前のA車の速度がこれを下回ることはあり得ないのであつて、右供述内容には看過しえない矛盾があるといわなければならないのみならず、A車の走行状況ないし速度についてのAの供述の推移をみてみると、本件事故発生の翌日の平成二年五月二八日付け司法警察員に対する供述調書中では、同日付け実況見分調書に基づいて説明する形で、「池袋駅を発進して間もないところでスカイラインが不必要なほどに車間距離をつめて追従を始めたので、三速ギアから加速し、時速九〇キロメートルまで加速した。都電荒川線を越えた付近においてルームミラーで追従車を確認して視線を前方に向けると進路を横切るように右から左に進行してくる被告人車を発見した」との供述がなされており、その後、同年六月一七日付け司法警察員に対する供述調書では、「本件事故現場のおよそ五〇〇メートル手前の首都高速五号線桁下を通行時スカイラインが異常接近してきたので速度を出して突き放したが、本件事故現場付近でまた追従の形になり、そのときの速度は突き放したときの速度よりもかなり落ちて時速六〇キロメートルだつた」との供述記載があり、また、検察官の取調べにおいては、いつたん、「自車の速度は時速六〇キロメートルから七〇キロメートルであつた」と供述しておきながら、その後これを訂正し、警察での第二回目の取り調べ(同年六月一七日付け供述調書)で述べた内容が正しい旨の手紙を検察官に差し出すなどしており、さらに、Aは、本件被告事件中で証言をした後、平成五年八月三日の、B子の遺族を原告、Aを被告とする民事訴訟の控訴審においては、「衝突直前デジタルで表示された時速は三七キロだつた」との全く新たな供述をしていることが認められるのであつて、そうすると、Aの捜査段階での供述が、タイヤ痕の特定を誤るなど重大な誤りが存する実況見分調書を前提になされたことを十分に考慮したとしても、Aは、捜査段階から本件被告事件の公判廷、さらには別件のA本人を当事者とする民事裁判と、供述を重ねるごとに、自車の速度をより低く供述したり、あるいはそれ以前には認めていた追従車両を突き放すための加速行為までも否定するなど、その内容の変遷には著しいものがあり、しかも、その変遷した理由について何ら合理的な説明をしておらず、単に自分は概ね制限速度を遵守して走行していたという点を強調するばかりで、客観的裏付けを一切欠いた供述に終始しているのであつて、そこには本件事故に関する自己の責任を極力回避しようという態度がありありと窺われると言つても過言ではないのである。したがつて、D証言及び江守鑑定(同証言を含む。)に反するA証言は到底信用することができないというほかはない。

第三  過失の有無

本件公訴事実(変更後の訴因とこれについての検察官の釈明を含む。)によれば、「対向車の有無及びその動静を十分に注視し、その安全を確認すべき業務上の注意義務」が、〈1〉転回を開始する際と〈2〉対向車線に進出する際の両方に存するとされている。そこで、以下、前記で認定した事実を前提として、被告人の過失の有無を検討する。

一  転回時の注意義務

1  はじめに、転回時の注意義務について考えてみると、まず、「転回」とは、同一路上において車両の進行方向を逆に転ずる目的で行う運転操作の開始から終了までの一連の行為を指称するのであつて、その目的、行為自体が車両の運転、通常の道路の交通方法としては異例なものであることから、転回は、他の車両等の正常な交通を妨害するおそれがあるときは行つてはならないとされている(道路交通法二五条の二参照)。したがつて、転回車の運転者としては、対向車及び後続車等他の車両の有無、動静に注意してこれとの衝突を避けることはもちろん、これら車両の交通の妨害にならないような方法で転回行為を行わなければならないわけである。

そこで、これを本件についてみるのに、先に認定した本件事故当時の道路状況及び被告人車の最小回転半径等を前提に考えてみると、被告人車が本件道路で転回しようとする場合には、ほぼ道幅一杯を使つて行わなければならず、そのため、できるだけ歩道寄り車線の左側に寄つたところから転回行為を開始して、後続車や対向車の正常な交通を妨害しないように、また、対向車線上に駐停車している車両等との接触ないしは衝突をしないように配慮しつつ行うことが求められ、そして、本件における転回の方法としては、これをもつて足りるものというべきである。このことは、本件道路中央に公訴事実記載のようなチャッターバー(高さ約五センチメートル、幅約五五センチメートルの土台部分の上に断続的に高さ五センチメートルの金属製の部品のついた道路標示)が設置されていたとしてもなんら左右されるものではないと考えられる。けだし、チャッターバーは、道路上に突起しているものであるから、これを乗り越えて走行するのは平坦な路面を走行するのに比べて、運転者に多少の注意が求められることになるであろうことは想像するに難くないが、そうかといつて、転回行為に入つた後、その途中でチャッターバーを乗り越えて対向車線に進出する直前に転回行為を中断し(いつたん停止したり、あるいは徐行するなどして)、対向車等の交通の妨害にならないように安全を確認しなければならないとすると、転回行為の終了が遅延して、かえつて後続車の交通の妨害となるなど、道路の危険を発生させるおそれが大きいと考えられるからである。

したがつて、本件事故当時の道路状況や被告人車の最小回転半径等を前提として考える限り、転回車の運転者である被告人としては、転回開始時において、転回行為の終了までに遭遇するであろう対向車や後続車等の有無、動静に注意し、これら車両の交通の妨げにならないように安全を確認して進行すべき注意義務があり、そして、これを行うことで、転回車の運転者としての注意義務を尽くしたことになるというべきである。

そうすると、被告人が行つた本件事故当時の転回方法は、道路状況や被告人車の最小回転半径からみて合理的であつて、被告人としては、転回開始時において、前方の対向車及び後方からの後続車に対する安全確認を行えば足りるのであつて、それ以上に、対向車線進出時において、重ねて、対向車との安全を確認すべき義務はなかつたというべきである。

2  また、右のような注意義務が転回車の運転者に課せられるとしても、これがいかなる場合においても対向車が転回車に優先する趣旨を含むものでないことはもとより当然である。すなわち、対向車が制限速度をはるかに超える異常な高速度で進行するような場合にまで、転回車の運転者をしてそうした車両の存在を予想してその進行を妨げてはならないとすると、転回行為が許される場合が極限され、交通渋滞を招く反面、暴走行為を許容する結果にもなり、道路交通法の目的である安全円滑な道路交通の維持も困難となるからである。したがつて、通常予測すべき程度の速度を超える速度は異常な高速度というべきであるから、転回車の運転者としては、転回を開始するに当たつて、特段の事情がない限り、このような高速度で接近してくる対向車のあることまで予想して、転回の際の安全を確認すべき注意義務はないというべきである。

二  予測すべき速度の範囲

そこで、転回車の運転者が、転回開始に当たつて、「通常予測すべき程度の速度」とはどの範囲のものとなるのかについて検討するに、まず、予測すべき速度の上限を、一律に時速何キロメートルと確定することができないことは、交通頻繁な幹線道路と住宅街の生活道路とを比べてみるまでもなく明らかであり、結局、具体的事案ごとに、道路状況や交通状況、また、最高指定速度等の交通規制等諸般の事情を考慮して決するほかはないというべきである。

そこで、これを本件について見ると、前認定のとおり、本件道路は、店舗、マンション等の連なる商業地域にあり、最高速度が時速五〇キロメートルと制限されており、本件事故現場付近は、路肩にパーキングゾーンがあり、本件事故当時には衝突地点の歩道寄り車線に数台の車両が駐停車しており、実質的に走行に利用しうる車線は、片側二車線のうちの中央寄りの一車線にすぎなかつたこと、そして、本件事故現場から約一〇〇メートル池袋駅寄り付近には都電荒川線の線路が道路を斜めに横断していて、そこには信号機が設置され、また、反対方向、すなわち、本件事故現場から約一〇〇メートル護国寺寄り付近から右にカーブし、さらにその先方で左にカーブしている状況であつたこと、また、司法警察員作成の速度測定に関する報告書及び弁護士高山俊吉作成の本件事故現場における走行車両の速度分布に関する調査報告書によれば、本件道路の交通状況は、本件事故現場付近を走行する車両の平均速度はおよそ時速五五キロメートル程度であつて、制限速度を遵守して走行している車両が多く、時速八〇キロメートル未満の速度で走行している車両が全体の九五パーセント以上を占めていることが認められ、時速八〇キロメートル以上の高速度で走行する車両は極めて稀であるということができ、そして、右の交通状況は、本件事故から三年余り経過した時点で実際に計測されたものであるけれども、本件事故当時における本件道路の交通状況を推認させるものと考えてよいと思われること、さらに、道路交通法が、時速三〇キロメートル未満の速度超過を反則行為として反則金の納付をもつて刑事罰の対象から除外していることをも勘案すると、本件道路において、転回車の運転者が予測すべき対向車の速度の範囲は、その上限を最大限に見ても、制限速度を時速三〇キロメートル超過する時速八〇キロメートル程度と考えることが合理的であると思われる。したがつて、本件道路においては、転回者の運転者としては、転回を開始するに当たつて、特段の事情がない限り、時速八〇キロメートルを超える異常な高速度のまま接近してくる対向車のあることまで予想して、転回の際の安全を確認すべき注意義務はないことになる。

三  安全確認すべき前方の範囲

以上検討したとおり、転回車の運転者としては、右の「通常予測すべき程度の速度」を前提に、転回行為の終了までに対向車の正常な交通を妨害するおそれがある範囲の前方の状況を確認すれば足りるのであるが、本件事故との関係で、対向車との衝突を回避するために必要な安全を確認すべき前方の範囲を考えてみると、具体的には、転回する車両の転回速度と転回所要時間との関連で、安全を確認すべき前方の距離的な範囲が決まることになる。そして、右にいう「転回行為の終了」とは、転回開始地点から左前輪が一八〇度移動した地点(以下、「転回終了地点」という。)に至つた時と見るべきであるから(なぜなら、転回車の左前輪が右の段階に至れば、ハンドルを左に序々に戻しながら加速することによつて速やかに通常走行に入ることが可能となつて、転回行為による交通妨害の危険性も大幅に減少しており、また、車体全体をみても、進行方向が当初と全く反対方面に向かつており、車両の進行方向を逆に転ずるという転回の目的を達したということができるからである。)、先に認定した被告人車の転回中の速度を前提として、転回開始から転回終了までの移動距離と所要時間を計算すると、以下のとおりとなる。

【移動距離】

2πr×180/360=2×3・14×5・2×180/360=16・32(メートル)

【所要時間】

(時速約10キロメートルの場合)

(16・32×140/180÷1・38)+(16・32×40/180÷2・77)=10・50(秒)

(時速約15キロメートルの場合)

(16・32×140/180÷2・08)+(16・32×40/180÷4・16)=6・97(秒)

右のとおり算出した転回開始から転回終了までの所要時間を前提として、転回車が転回開始地点にあつたときの時速八〇キロメートル(秒速二二・二二メートル)で進行している対向車の位置を、転回終了地点から逆上つて求めると、次のとおり、被告人車の速度が、時速約一〇キロメートル(転回終了までの所要時間約一〇・五〇秒)の場合は転回終了地点から約二三三・三一メートル池袋駅寄り、時速約一五キロメートル(転回終了までの所要時間約六・九七秒)の場合は転回終了地点から約一五四・八七メートル池袋駅寄りを走行していることになる。

(時速約10キロメートルの場合)

22・22×10・50=233・31(メートル)

(時速約15キロメートルの場合)

22・22×6・97=154・87(メートル)

したがつて、転回車の運転者としては、時速約一〇キロメートルで転回する場合には転回終了地点(転回開始地点)から約二三三メートル池袋駅寄り、時速約一五キロメートルで転回する場合には右地点から約一五四メートル池袋駅寄りの前方について安全確認をすることによつて、転回行為の終了までに、対向車と少なくとも衝突することを回避することができることになるわけであるから、そうすると、転回車の運転者としては、時速約一〇キロメートルで転回する場合には右地点から約二三三メートル池袋駅寄り、時速約一五キロメートルで転回する場合には右地点から約一五四メートル池袋駅寄りの前方について、安全を確認する義務があるということができる。

四  被告人の過失の有無

1  ところで、本件において、被告人車とA車とは添付図面2記載の〈×〉地点で衝突しているところ、先に認定したとおり、A車は、衝突地点の手前約四〇メートルの地点付近から衝突地点までの約四〇メートルの区間は時速約八〇キロメートル(秒速約二二・二二メートル、所要時間約一・八〇秒)で、衝突地点の手前約九〇メートルの地点付近(吉野家付近)から衝突地点の手前約四〇メートルの地点付近までの約五〇メートルの区間は時速約一二〇キロメートルと時速約八〇キロメートルの平均速度である時速約一〇〇キロメートル(秒速約二七・七七メートル、所要時間約一・八〇秒)で、それより前の池袋駅寄りの区間は時速約一二〇キロメートル(秒速約三三・三三メートル)でそれぞれ進行したものであるから、先に求めた被告人車の転回開始からA車との衝突までの所要時間を基に計算すると、被告人車が転回開始地点にあつたときのA車の位置は次のとおりとなる。

(時速約10キロメートルの場合の衝突までの所要時間約10・18秒)

(22・22×1・80)+(27・77×1・80)+(33・33×6・58)=309・29(メートル)

(時速約15キロメートルの場合の衝突までの所要時間約6・75秒)

(22・22×1・80)+(27・77×1・80)+(33・33×3・15)=194・97(メートル)

すなわち、被告人車が時速約一〇キロメートルで転回した場合には、A車は衝突地点から約三〇九メートル池袋駅寄りの地点を走行していたことになり、他方、被告人車が時速約一五キロメートルで転回した場合には、A車は衝突地点から約一九四メートル池袋駅寄りの地点を走行していたことになり、いずれの場合であつても、被告人が安全を確認すべき約二三三メートルないし約一五四メートル池袋駅寄りの地点よりも、はるかに前方を走行していたことになる。

そうすると、結局、いずれの場合であつても、被告人が客観的に要求される安全を確認すべき前方の範囲についても対向車の有無、動静を確認していたとしても、実際にはA車はそれよりもはるかに前方を走行していたことになるから、注意義務の履行のいかんにかかわらず本件事故の発生は回避できなかつたものといわなければならない。

2  次に、被告人が実際に安全確認したという前方の範囲について考えてみる。

被告人は、捜査段階においては、「対向車線を池袋駅方面から来る車両の有無を確かめたが、都電荒川線の先の信号付近まで対向車線を護国寺方面に向かつて来る車両はなかつた」旨供述しているところ、都電荒川線の先の信号というのが、具体的にどの信号を指すのか判然としない憾みがあるが、一方、第一三回公判調書中の被告人の供述部分及び被告人の当公判廷における供述(以下、併せて「被告人の公判供述」という。)によれば、被告人は、「普段から事故現場付近で転回する際には、ひまわり亭付近(本件事故現場から約一八〇メートル池袋駅寄り)まで見通しており、ひまわり亭より手前に対向車があると転回を躊躇していたのであつて、本件においても、転回に際し、ひまわり亭付近まで対向車の有無を確認した」と述べており、そして、被告人の右公判供述は、被告人が婚約者のB子を自宅に送るために本件事故現場付近において何度も転回した経験を有しており、右経験の中でひまわり亭付近まで確認すれば十分という感覚を有するに至つたというものである上、前に検討したとおり、時速約一〇キロメートルないし一五キロメートル程度で転回する場合に、対向車との衝突を避けるためには事故現場付近から一五四メートルないし二三三メートル程度前方まで池袋駅方面を確認する必要があることからすると、被告人が本件事故現場で転回するに際し、約一八〇メートル前方のひまわり亭付近を一応の目安としていたということは、自動車運転者一般の感覚に照らしても、極めて自然かつ合理的であると考えることができ、これに加えて、被告人の供述態度に照らしてみても、自己の刑責を免れるため、あるいはこれを軽減するためにことさら虚偽供述を行つているものとも認められないから、そうすると、被告人の公判供述は十分に信用することができるものといつてよい。そうだとすると、被告人が転回を急いだなどという特段の事情の認められない本件においては、被告人は、転回するに際して、ひまわり亭付近まで前方の対向車の有無を確認したと認定することができる。

3  そこで、被告人が、前方のひまわり亭付近まで対向車の有無を確認したことを前提に被告人の過失の有無について検討すると、まず、被告人が時速約一〇キロメートルで転回する場合には、先に検討したとおり二三三メートル程度前方まで安全確認を尽くす必要があるのであるから、被告人がひまわり亭付近まで前方を確認したとしても、客観的には、被告人の行つた安全確認行為には欠けるところがあつたということになる。しかしながら、当時、A車は実際には被告人が安全確認すべき前方よりもはるかに遠方を走行していたのであるから、被告人の注意義務の履行のいかんにかかわらず、本件衝突事故の発生は回避することができなかつたものということができ、そうすると、被告人の右注意義務違反と本件事故との間には法律上の因果関係を欠くことになる。

また、被告人が時速約一五キロメートルで転回する場合には、一五四メートル程度前方まで安全確認を行えば足りるのであるから、被告人がひまわり亭付近まで確認して転回行為に入つている以上、被告人の前方に対する安全確認行為には欠けるところはないということになり、そして、被告人がひまわり亭付近まで確認した際に、A車の異常な高速走行を認識することができた特段の事情があつたことも、本件においては認めることができないから、結局、被告人は転回車の運転者としての前方に対する安全確認義務の履行に欠けるところはなかつたということになる。

第四  結論

以上の次第で、本件公訴事実については結局犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡しをする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 川上拓一 裁判官 田島清茂 裁判官 丹羽敏彦)

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